コルベ神父についての資料を展示しております

■コルベ神父について

コルベ神父の正式の名前はマキシミリアノ・マリア・コルベ。
コルベ神父は1894年にポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで生まれました。コンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会し、大神学生時代にローマへ留学。
仲間とともに「無原罪の聖母の騎士信心会」を設立しました。ローマで司祭叙階を受けた後、クラクフにある大神学校の教会史の教授として3年間勤めました。
1927年にはワルシャワの近くにある、テレシンの町にニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)を創立し、「無原罪の聖母の騎士」という小冊子を発行してメディアによる宣教に力を入れました。


■神父への道のり

1894年、ポーランドの織物職人の息子として生まれます。
彼が13歳のとき、フランシスコ修道会の神学校に入り、大神学時生時代にローマへ留学しました。
7年間哲学と神学を学びながら、そこで知り合った仲間とともに「無原罪の聖母の騎士信心会」を設立します。
この会は、聖母マリアの保護の下に愛と祈りの業をもって人々の救霊に尽くすこと、という目的で作られました。
25歳で司祭叙階を受け、司祭となって帰国したコルベ神父は、3年間クラクフにある大神学校の教会史の教授として勤めます。
1927年、ワルシャワの近くにあるテレシン村で最初の『無原罪の聖母の騎士』という小冊子を発行し、宣教活動を始めるようになります。
このときの制作費は信者の献金、執筆者はコルベ神父ひとりでした。彼のこの志の高さにより、しだいに修道志願者が集まり始め、雑誌の発行部数を伸ばしていきました。


■長崎での宣教活動

1930年4月24日、36歳のコルベ神父は「けがれなき聖母マリアを全世界の人々に示す」という大きな夢を持ち、数名のポーランド人修道士達と共に、東方への宣教に乗り出します。
その場所が長崎でした。同年5月、長崎に上陸したコルベ神父は、大浦天主堂下の木造西洋館に聖母の騎士修道院を開き、印刷事業を始めます。
そこで、日本語の『無原罪聖母の騎士』第1号を1万部発行しました。( 当時の技術・機材環境・資金面での1 万部発行は過酷な作業でした、印刷ミスのロスや文字がズレたりと並々ならぬ努力と忍耐の作業をコルベ神父は行っていたのです)
翌年、聖母の騎士修道院を長崎市内にある本河内町196番地へ移転させ、聖母の騎士誌の発行と布教活動に専念します。
また、大浦神学校では教授として学生たちに哲学を教えました。聖母の騎士誌の原稿執筆や大浦神学校教授など、多忙な日々を長崎で過ごします。
コルベ神父がポーランドへ帰国する1936年には、聖母の騎士誌は6万5千部に達していました。現在の聖母の騎士修道院には、聖堂、印刷所、聖コルベ記念館として資料室、志願院、ロザリオの碑、ルルドの泉などがあり、神父の想いが脈々と受け継がれています。
こちらの修道院へは、1981年2月に訪日中の教皇ヨハネ・パウロ2世も巡礼されました。

聖コルベ館に展示してある資料


■コルベ神父の最期

第二次世界大戦が始まり、1939年8月末ポーランドはドイツ軍に占領され、ニエポカラヌフの修道院も荒らされた。
印刷機械は没収され神父や修道士は収容所に送られたが、2ヵ月後釈放された。コルベ神父はまたニエポカラヌフに戻り、1年後に『無原罪の聖母の騎士』誌を発行した。
しかし、ナチスは、彼の説くカトリックの教えとナチスの思想は相反するとして、コルベ神父をブラックリストに載せていた。1941年2月17日の朝、ゲシュタポがニエポカラヌフに来た。コルベ神父はワルシャワの収容所に送られた。
このとき、20人の修道士が彼の身代わりになることを願い出たが拒否され、ついに彼はアウシュビッツ強制収容所に送られた。囚人番号16670。それが、コルベ神父につけられた番号だった。

1941年の夏、コルベ神父はアウシュビッツで強制労働に就かされていた。
ある日、同じ班の囚人から脱走者が出た。捜索しても脱走者は見つからない。このまま見つからないと、連帯責任として、見せしめのために同じ班の中の10人が処刑されることになっていた。
翌朝、囚人は点呼を取り整列させられ、そのままの姿勢で待機させられた。姿勢を崩すと監視兵が容赦なく殴る。
罰として、炎天下で食物も水も与えられていなかった。疲労と乾きで倒れた囚人は、監視兵によりゴミ捨て場に投げ込まれてしまった。午後3時ごろわずかの昼食と休憩が与えられたが、再び直立不動の姿勢を強いられた。

その後、脱走者は見つからず、収容所所長は無差別に10人を選び餓死刑に処すと宣言した。
息詰る時間が流れ、10人が選ばれた。
その中に、突然妻子を思って泣き崩れた男がいた。囚人番号5659、ポーランド軍軍曹のフランシスコ・ガヨヴィニチェク。彼はナチスのポーランド占領に抵抗するゲリラ活動で逮捕されていた。

そのとき、囚人の中からひとりの男が所長の前に進み出た。
所長は銃を突きつけ「何が欲しいんだ、このポーランド人め!」と怒鳴った。
しかし、男は落ち着いた様子と威厳に満ちた穏やかな顔で「お願いしたいことがある」と言った。
所長が「お前は何者だ」と問うと、その男は「カトリックの司祭です」と答えた。そして静かに続けた。「自分は、妻子あるこの人の身代わりになりたいのです」。
所長は驚きのあまり、すぐには言葉が出なかった。囚人が皆、過酷な状況の中で自分の命を守るのに精一杯なのに、他人の身代わりになりたいという囚人が現れたのだ。
その場のすべての者は呆然となった。しばらくして所長は「よろしい」と答え、コルベ神父を受刑者の列に加え、ガヨヴィニチェクを元の列に戻すと、黙り込んでしまった。
受刑者名簿には、「16670」と書き入れられた。コルベ神父は他の9人と共に<死の地下室>と呼ばれる餓死監房に連れて行かれた。
のちに、このときの目撃者で収容所から生還した人々は、この自己犠牲に深い感動と尊敬の念を引き起こされたと語った。餓死監房は生きて出ることのできない場所だった。パンも水もなく、飢えは渇きよりも苦しく、多くが狂死する。
そこからは絶えず叫びやうめき声が響いた。ところが、コルベ神父が監房に入れられたときは、中からロザリオの祈りや賛美歌が聞こえてきた。
他の部屋の囚人も一緒に祈り歌った。彼は、苦しみの中で人々を励まし、仲間の臨終を見送った。そして<死の地下室>を聖堂に変えた。

2週間後には、彼を含めて4人が残った。
当局は死を早める注射を打つことにした。彼は注射のとき、自ら腕を差し出したという。このとき立ち会ったブルノ・ボルゴビエツ氏は、いたたまれず外に飛び出してしまった。
彼は囚人だがドイツ語ができたので通訳をさせられており、後日、コルベ神父の最期について貴重な証言をした。
8月14日、聖母被昇天祭の前日、コルベ神父は永遠の眠りについた。

47歳だった。

亡くなったとき、彼の顔は輝いていたという。ひとりの神父が他人の身代わりになって死んだという噂は収容所に広まり、戦後、英雄として語られていった。

コルベ神父の最後


■愛の殉教者、コルベ神父

以上がコルベ神父の生涯です。
彼がなぜ教皇ヨハネ・パウロ2世により聖人の列に加えられ、「愛の殉教者」と呼ばれるようになったのでしょうか。
それは、キリストの「友のために自分の命を捨てること、「愛の殉教者」これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15.13)という言葉があり、コルベ神父は文字通りこの言葉を体現したからです。
彼は自分が身代わりとなり一人の命を救っただけでなく、他の受刑者と苦しみを共にすることを選びました。
彼は最期まで、見捨てられ絶望した人々を励まし続けたのです。
神父の大きな愛により、1971年に列福されて福者の位を受け、1982年10月10日に同国出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖され聖人の位を受けました。
式典にはコルベ神父に命を助けられたガイオニチェクの姿もありました。
彼は戦後世界各地で講演を続け、死去るその時までそれを行いました。
1998年にはロンドンのウェストミンスター教会の扉に「20世紀の殉教者」の一人としてコルベ神父の像が飾られています。

愛の殉教者コルベ神父
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